(企画案)
京都から新幹線で東京に向かうと、いつも気になる風景がある。
彦根から米原にかかる辺りだと思われるが、進行方向に向かって右側の車窓に、なだらかな丘陵を背景にした田園地帯が広がる。そこに40~50軒の集落がポツンポツンと点在している。なかには20軒ほどしかない小さな集落もある。新幹線があまりに速いため、集落の間の距離がどのくらいあるのか正確には分らないが、一つが消えると次が現れるという具合である。
私が気になるのは、そうした集落の中に必ず存在しているひと際大きな瓦屋根である。時には、集落を見下ろすような山裾と、集落の中心の二カ所に見えることもある。他の屋根と比べると圧倒的な存在感がある。
寺である。
車窓から見ると、その大きな瓦屋根に吸い寄せられるように家々が集まっているようにさえ見える。
こんな形の集落がつくられたのは、徳川幕府が宗門改めの為に寺請け制度をつくったからだと思われる。そうすると、400年近い歴史があることになる。
それぞれの土地にふさわしい歴史を背負っているだろうし、寺や僧侶と住民の間には悲喜こもごもの物語が綴られてきただろう。
明治の廃仏毀釈や敗戦後の西洋化など、存亡の危機に瀕したことも度々あるだろう。それでも、人々は寺を維持してきたのだ。
教育や医療が未分化だった江戸時代まで、寺は学校であり診療所だった。僧侶は、教師・医師・戸籍係・心理カウンセラーなどの役割を果たすマルチな才能を持つ文化人だった。
冠婚葬祭だけでなく、人々はあらゆる相談ごとのために寺を訪れ、住職と語り合ったに違いない。人生に行き詰った時や迷った時に立ち止まってひと休みする〝木蔭〟の様な存在だったのだろう。
人生、家族、そして死…。
寺は、友人や親兄弟には相談できない悩みや苦しみを吐き出すことができる貴重な空間だったと思われる。
その後、教育は学校が、医療は病院が、社会的な悩みはカウンセラーがというように専門化が進み、僧侶の役割は葬送儀礼が主になった。集落の中で寺や僧侶が果たす役割は大幅に減ってしまったのだ。
しかし今、職業の専門化が進み、科学技術が急速に発展する中で、寺や僧侶が果たしていた役割が見直され始めている。日本の社会が効率や合理性を追求し続けた結果、何か大切なものを失ってしまったことに人々が気づき始めたからだろう。
医療の分野でも同様である。
現代医学は、多くの難病やがん患者の生命を救うことに成功し、進歩し続けている。しかし、それでも治せない病気や救えない生命があり、大勢の人が悩み苦しんでいる。治療効果が上がったと信じられているだけに、心の傷はより深くなったのかもしれない。
最近では、そうした患者さんや家族のために『がん患者の会』や『がん患者サロン』が設立され、『臨床僧の会・サーラ』の会員も定期的に参加している。
しかし、その多くが病院の施設やスタッフと深くかかわっていることもあって、参加しない患者さんも多い。中には、自らががん患者であることを知られたくないからという理由で参加しない人もいる。
寺は、そんな人たちが闘病の途中でひと休みできる〝木蔭〟や、病と闘い続けるためのエネルギーを補給する〝オアシス〟の役割を果たすことができるのではないだろうか。
かつての、檀家寺と檀信徒という密接な繋がりはないかもしれないが、今、求められているのはもっとニュートラルな関係のように思われる。
『緑蔭』は、僧侶が医療関係者でも家族でもない立場で話を聞き、疲れ切った心を休めて貰うことができる〝こころのオアシス〟である。勿論、医療の最前線で生命と向き合い、神経をすり減らしている医師や看護師のオアシスにもなるだろう。時には時間を忘れて、仏前や庭で静かに坐ることもできる。
月に1日か2日、日時を決めて寺を開放し、誰に相談したらいいのか分らない悩みを持つ患者さんやその家族、医療関係者に訪問して貰いたいと思う。
『臨床僧の会・サーラ』
事務局長 児玉修