最近「平穏死」という言葉が、新聞等メディアに見かけることが多い。また、このことの薦めを書いているお医者さんの本も巷間よく読まれているという。
平穏死の対極にあるのが、病院や施設で、点滴や排泄の管やチューブにつながれ、食事も胃ろうなどによるもの、自分の意思にかかわらず、延命する(させられる)そして、苦しみながら苦悶をいだきつつ人生の幕をおろすという、生命の終焉が書かれている。
平穏死に至る生き方や健康法についても様々なヒントや健康法が書かれた本も売れているそうだ。
確かに穏やかで、苦しまず、痛みも少なく自分の苦悶の姿をさらすことなく、出来ることなら親しい人々や親族家族友人にかこまれて、手を握りあい、「ありがとう」「good-bye」とお別れする、いわばドラマ的なことにあこがれている人も多い。いや100%近い人々が望み願うこと思う。しかし、そのように終焉を迎える人は、極めて少ないだろう。
思うところは、人の死にざまに、なんだか善悪や優劣の別がつけられるところに一種の危機感を抱くのである。
「やがて死すべき生命あるはありがたし」とは釈尊の教えの根本であるが、自分の思い通りにならないところにこそ人生の妙味もあるのだと思う。そこを「ありがたい」と思える人生でありたい。
研修会や医療の講座で病気に伴う「痛みの緩和」疼痛緩和は、かなりできるようになったと学んだが、精神面の痛みの緩和について、いうところのスピリチュアルケアについての重要性と我々臨床僧が関われる可能性について深く考えるのです。
どんなに苦しい病床であってもいつでも側に誰かがいてくれる、ついていてくれると信じることが信心信仰であろうし、家族や親族、友人と同じ立場の如き宗教者・僧侶、菩提寺和尚でなければと思うところである。
死にゆく人の姿は、やがては自分が将来通るべき道であろう。どんな死に様も尊いことと思いたい。ことさらに平穏ということを強調するには如何なものかと少々危惧の念を抱くのである。
佐野泰典